悪のほそ道

発達障害やらアニメの感想やらプロレス感想などいろいろやります。

鉄血二期自称アカン警察

ここでは、鉄血二期がなぜアカンのかを
説明していこうと思う。

まず、作る側がキャラの回し方を
「忘れている」
一番いい例がマクギリスでありガエリオであろう。

マクギリスは一期では権謀術数を駆使し、状況までも利用する頭のいい人間として描かれていたのだが、
二期ではバエルを手に入れた途端痴呆化してしまった。
スタッフ連中は
「マクギリスはバエルを手に入れた時点で満足した」としているが、
こんなものははっきり言ってあまりにも抗議が酷かったもんだから言い訳テキトーに考えて誤魔化した戯言に過ぎない。

もし百歩引いてマクギリスを痴呆化するにしても、バエルが手に負えないチートボスでなければ説得力もないし、プラモを買おうとするお客様にも泥を塗っているに等しい行為だろう。

おそらく、1年連続でやっていたら防げていたのかも知れない。
一年空いたからこそキャラをどう回すかも忘れてしまっていたのだろうと思うが。
最もスタッフがマシな連中だったらの話。

第二にあまりにも物語の間が悪いということ。
その典型的な例としてジュリエッタの行動だろう。
彼女がもし妨害しなければもっと物語はスムーズに行ったのではないのか?
お陰でイオクは死ぬタイミングを完全に失って不当なバッシングを被ることになったし、
ラスタル役の大川透氏からも「俺死ななくていいの」とか指摘されているほど、
ラスタルも死ぬタイミングを逸したともいえよう。
そう、ギャラクシーキャノンの時点でラスタルは死んだ方がまだ物語としてはマシとも言えた。
三日月がジュリエッタに対して「お前消えろよ」と言ったセリフがあるが、これに同意したお客様は多かったのではないのか?
最もダインスレイブやヒットマンにしても同じことが言えるのだが。

第三はスタッフの事後処理だ。
開き直って好き放題言っている。
謝罪の一つでもあれば違っただろうが
スタッフ連中はどいつもこいつも
「発言の自由」というのを勘違いしている。
これだけははっきり言わせてほしい。
特に小川正和と伊藤悠だ。
こいつは何回言えば治るのだろうかと暗澹たる思いでいっぱいだ。
匿名での勘違い野郎ならまだ理解しなくもないが(かといって支持もしないが)
こいつらは公に発言しているという意識がまるでない。
発言の自由というものをあまりにも勘違いしている。
公に言うべきことは何かを考えて責任をもってそこから自由が始まるのではないのか?
長井龍雪に至ってはあまりにも発言に責任がなさすぎる。

ただ、ここまで荒れた発言をするのは
おそらく枠移動が原因の一つとしてあったのではないか?

枠移動や打ち切りを前にクリエイターが取る行動は二通り。
一つは有終の美を飾るべくやれることで全力を尽くす。
もう一つはタガが外れてめちゃくちゃになる。

おそらく鉄血は後者だ。

この原因もあり、鉄血二期の頃はもうスタッフにやる氣がなかったのではないかと見ている。

だから、アカンのだよ鉄血二期は。
本当言うと鉄血に思い入れも何もない。
けど、同じ過ちは繰り返してはいかんから言ってるだけ。
もう少しスタッフは真剣に反省してくれませんかね。

今日の一曲 「炎の麻婆豆腐」 嘉門タツオ

 

いわゆる「食」をテーマにした歌です。

 

これに限らず食べものをテーマにした歌はただこの歌が

売れただけでは本懐を遂げたと言えないと思うんです。

え?歌が売れなあかんやろて?

いえいえ、そもそもただ歌を売るために食を題材にする必然性ってあると思いますか?

そもそもなぜ食をテーマにする意味って何か分かりますか?

これはベタなCMソングにも通ずる話なんですけど、「曲によって普遍的な欲を刺激する」ことにこそ本当の目的があるとは思いませんか?

そう、「食べたい!!」と思わせることに意味があるんですよ。

それにしても、ロック調の曲がこれほどまで麻婆豆腐とシンクロするとは。

やはり曲の荒々しさが辛さとシンクロしてるんだと思います。

この曲を聴いて「麻婆豆腐食いてえ」となればこの曲の本懐なんですよ。

 

ちなみにこの曲の監修をあの鉄人 陳建一先生に頼まれたとのこと。

何と、鉄人自ら歌っておられる動画も。

こういうの見るとすげー幸せになります。

 

いやはや、花椒が効いた麻婆豆腐が食いたくなってくるぞ。


麻婆豆腐の歌(炎の麻婆豆腐)

ちなみに鉄人自ら唄われている動画がこちら

ネットでの発言は鏡を見て話すようなもの

ネットでの批判や誹謗中傷など、
実際のところ例外なく「それ自分のこと言ってるぞ」「お前ブーメラン刺さってんぞ」
という状況は例外なく誰でも起こりうるものではないだろうか?
例えばこっちに「お前が気にいらないからクソ」と言いたいだけと発言した奴がいたとします。
しかし、その発言前後のツイートや記事を読んでいくとやはり「お前も気に入らないからクソと言ってるだけやんけ」となってガッカリしてしまうことが多々ある。
何故こんなことがネットで起こってしまうのかというと、
結局話をしているという意識がどうしても薄れてしまうからではないのかいうのが俺の考えだ。
確かにパソコンやスマートフォンでの発言は手軽だ。
故に一般人が楽に発言できる媒体でもある。
しかし、知らず知らずのうちに脳が回ってないのにも気付かず発言してしまってはいないだろうか?
あと、スマホやパソコンで書いているが故相手と話しているという意識が希薄になりがちというのもあろう。
そうなると知らず知らずのうちに誰しもブーメラン投げて刺さってる状況になってしまうのではないのか?
カイジにおけるEカードを例に取れば分かりやすい
「心の読み合いはお互いの鏡をみるようなもの
相手の心を読むつもりが、知らず知らずのうちに自分はどうするかということを考えてしまう」
セリフはうろ覚えだが
実際のところネットでの批判や発言はおおよそこうなりがちである。俺も例外じゃない。
認めたくないものだがね。
だから、ブログであれツイッターであれフェイスブックであれ、
ネットでの発言は鏡の先の自分を見て話すようなものだという事を強く意識して発言しなくてはいけない。

本日の入場曲 「STARDUST」

ご存知 内藤哲也選手の入場曲です。

この曲は新日本隊のスターダストジーニアスの時代から苦楽を共にしてきたまさに内藤哲也のレスラー人生そのものというべき曲ではないでしょうか。

今ではイントロが流れた瞬間から
ナーイートーーー ナーイートーーーの
大合唱が起こるまでになったこの曲ですが、

その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

イッテンヨンIWGPヘビーのセミ降格から
ブーイングを浴びせられ続けられてきました。
そこからもがき続け、再びメキシコで光明を掴んでからの制御不能なカリスマとして、
ついに勝ち取った夢の東京ドームのメインイベント。

https://youtu.be/8XCA3bZWz0c

あの時の東京ドームは熱かった。

新たな夢、5大ドーム開催へと向けた内藤の活躍に、この曲は切っても切り離せないのではないでしょうか。

今日の一曲 「ユカイなモッコリ」(嘉門達夫)

本日の一曲はこちら。

嘉門達夫のユカイなモッコリ

 

嘉門達夫いわく「滑って売れなかった曲」だったそうで。

www.youtube.com

しかし、ヌケサク一番は別の視点で見てしまいます。
1コーラス目のAパートにかぶさるEVEによる「うっふーん」「うふふーん」「う・ふ・ふん」
がまあエロかわいいのなんの(笑

ぶっちゃけAパートで欲してるものが終わってしまう曲ですね。

使いみちですか。

曲全体としてはガチムチパンツレスリングや淫夢ネタMADの
素材でしょうか。

今はギャーシリーズとか買ったほうがいいかもですね。

鉄華団アンチは一期から糞と罵るが、なぜ一期や二期の途中までの世間での評判は良かったのか?

アンチ鉄華団ないしガエリオは良かった勢が口々に言うのは
「一期の最初から糞」「糞だと見切った俺達の勝利」などと
のたまっている状況ですが、
多分反論ができないけど拭いきれない違和感を持たれている方って
少なからず居ると思うのです。

しかし、ふとしたことからある本が少しヒントになりまして。

「伝える力」と「地頭力」がいっきに高まる 東大作文 [ 西岡 壱誠 ]

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感想(1件)

そこでわたしが氣づいたのが「物語の締め方の成否が大きく後の作品の評価を左右する」
という現象がここでも例外なく起きているのではないかということです。



  1. 東大作文においても作文の基本はゴールを決めることといっている。
  2. 終わり方によってどのように変化するのか?
  3. 鉄血の場合、1期と2期の締め方は何が違っていたのか?
1.東大作文においても基本はゴールを決めてから書くといっている。

例えばツイッターやラインで文を書く場合、どのように書くか意識したことは
あるでしょうか?
実を言うと自分も東大作文という著書を読むまでまったくもって何も考えずに
出た言葉のまま書いて、そのたび自爆してました。
しかも、これでは何を言いたいのかわからない文をいつの間にか書いていることにすら自分で気づかないまま、「なんでわかってくれないんだ」と筋違いな怒りを発していました。
そりゃゴールを決めて書いてないから適当かつわかりにくい文章になるのは
当たり前という話です。
東大試験ではそんな文章は間違いなく0点をたたきつけられるそうです。
なぜか?「読んでいる側は自分が思っているより賢くない」という前提を以て、
「わからない人のためにわかりやすく文章にする」ということが求められるからだそうです。
伝えやすい文章を書くためには、ゴールをまず設定してから文章を考えると、
よりわかりやすい文章を作れるということだそうです。
なぜか?それは人間は最後のほうが印象に残りやすいという結果があるからだそうです。

2. 終わり方によってどのような変化するのか?

え?終わり方が関係あるの?さっきから終わり方終わり方言ってるけど
と思われてる方。実はこの著書の中にも実例が紹介されているんです。
著書では映画の例で示されています。
それは
1・見てる間はなかなかいい展開だったのに最後は肩透かしだったりしょーもない終わり方の映画
2・最初はなんだか盛り上がりに欠けるけど、終わりに近づくにつれ怒涛の伏線回収やら盛り上がる展開で
クライマックスへと走り切る映画

この2つを比べて、どちらが評価が高くなるのかを提示しております。
一般的なものの見方であれば当然2ですよね?
作文においても この例を用いて終わり方の重要性が説かれていましたが、
実のところアニメでも特撮でも同じことが言えるのではないでしょうか?

3.鉄血の1期と2期の締め方は何が違ったのか?

いよいよ美味しいところに入ります。
一期の場合は、ドルトコロニー編での評価は低く、中だるみと言われても
仕方がないという声が聞かれましたが、クーデリアを議会まで送り届ける、
目的を果たしたら生き残るために全力を尽くす、そしてグレイズアインとの戦いと
マクギリスとガエリオの決闘と物語が噛み合ったいい締め方をしており、
まさに終わりよければを地で行っていたと言ってもいいくらいでした。

翻って2期はどうか?
話が進むにつれ期待はさせておいてくじを引いてみたらハズレ
で、箱を開けたら全部スカみたいな展開の連続で、
期待を裏切り続け、しかもしまいには予想は外さないという
最低の展開になってたのではないでしょうか?
一般的な意見はバエルチートにしろよ、ライドはラスタル殺しとけよ
というのがほとんどだったんじゃないですか?

結論に入ります。

物語の世間における評価は物語の締め方によって大きく左右されていくものであり、
鉄華団アンチ連中、ガエリオ支持連中が言う
「最初から糞だったからこの展開は妥当、オレ偉い」というセリフは
一見的を射ているようで完全な見当はずれであり、
いわば枝葉の数しか見ていない行為に等しい。
その時点で一般的なものの見方ができなくなって視野が狭くなっていて、
しまいには世間からズレていると自分で宣言しているようなものです。

そんなものオレの勝手だと思われる方もおられましょうが、
私から言わせればそんなものはただの思い上がりです。
自戒も込めて言うのですが、
そのような見方は今後のご自身のためにも今すぐにでも改めていただきたい。
終わりに至るプロセスと締め方を見てまっとうな評価をする方々が増えることを
願ってやみません。