今年も24時間テレビが終わった。
- 失われた24時間テレビの目的
- 一方で「ユニセフ協会」の温床と化した
- その一方でたけし、さんまの行動言動が支持されている。
- だが待ってくれそれは罠だ。
- 冷笑主義としらけを生み出すのが彼らの目的と化した。
- 別にエセチャリティでもいいからそろそろ障害の現状と真剣に向き合ってくれないか?
失われた24時間テレビの目的
24時間マラソンが始まるまでは
障害に関する問題、地球環境、貧困や飢えに対する問題を考える番組であり、
コンサート中継はあくまでも募金活動中継だったはずである。
たまたま寛平のマラソンがウケてしまったがためにこの理念の全てが破壊されてしまったのではないか?
その一方でたけし、さんまの行動言動が支持されている。
たけしやさんまが24時間テレビに出演を依頼された際、ギャラが出ることを聞いて断ったという話をアンチ24時間テレビがありがたがる話が毎年のように起こっている。
わたしはどうもこれに対し違和感しかなかった。
だが待ってくれそれは罠だ。
正直言うと「それ言う必要あったの?」という感じ。
何故わざわざそれを彼らが言い出すのかということに対して何かあるのではないか?
そう考えた場合、視聴者への影響を鑑みるとひとつの答えが見えてきた。
冷笑主義としらけを生み出すのが彼らの目的と化した。
そう、我々視聴者を「冷笑主義」や「しらけ」に堕とすためにわざわざギャラが出ていることを言ったのではなかろうか?
この罠のセコイところはたけしやさんまの意見によって「ひとつ賢くなった」と錯覚させるところにある。
だが、その本質は24時間テレビを仕切ってる裏社会の連中とグルで、別方向の洗脳による「しらけ」「冷笑」への思考停止へと堕とすことにあるのではないか?
だから安易にたけしやさんまの意見に乗っかるのは危険だと言っておきたい。
所詮はマッチポンプ。人工芝である。
別にエセチャリティでもいいからそろそろ障害の現状と真剣に向き合ってくれないか?
感動ポルノで誤魔化すのではなく、
多様化して発覚する障害の壁の理解を深め、
覚悟を問う場としてのテレソンの復活を望みたい。
何なら無くしてもいいとさえ思っている。
24時間放送でなくても草の根でいいではないか。